坂本レポート27 2007年8月23日 
  「高知大学の選手の交代をお知らせします。ピッチャー西谷君にかわって、戸田君・・・土佐高校。」
東部球場の場内アナウンスの声が観客席に響きました。それまで徳島大学をピシャリと抑えていた4年生エースのマウンドを、満を持してブルペンで待機していた浩司が引き継いで、ピッチャープレートに向います。ここまで来るのに、2005年9月の発病以来まる2年間の闘いでした。
 昨年10月2日、高知大学に復学できてから11ヶ月。弟の造血幹細胞移植後、ふた夏を経る必要があると主治医の先生に診断されて、昨年秋から少しづつ少しづつトレーニングを重ね、小松監督のあたたかい配慮で、何としてもこの秋のリーグ戦での登板を期して、節制し努力を積み上げてきたのです。
 今月中旬の広島・岡山合宿での練習試合、先週の松山フェニックスとのオープン戦で登板し、小松監督さんは、今日(8月23日)秋季リーグ戦の開幕試合に戸田浩司をマウンドに送ることを決断しました。 
 午後1時に始まった四国六大学リーグの初戦は、高知大学が優勢で3対0のまま終盤に入り、8回表ライトフライの間に3塁ランナーがタッチアップして生還、4点目を入れてチェンジとなった攻守交代の時に監督は主審に「ピッチャー戸田」と告げたのです。
 中盤から1塁側ブルペンでは、戸田と同期の背番号21・田内が並んで投球練習していましたが、すでに監督さんに指示されていた浩司は、笑顔で小走りにマウンドに駆け上がりました。報道各社のカメラの放列が一斉に浩司を追います。ゆっくりと、左足着地の位置をスパイクで掘り返しながら、投球練習を始めた浩司の顔には、キッとした決意がみなぎっているように見えました。
 スタンドからは「待ってたぞ!戸田〜」の声援が聞こえ、8回裏が始まりました。 

 先頭打者には、1球目ホップするストレートから入って空振り。ファール2球後の2−0から外角カーブでショートゴロに打ち取りました。観客席からやんやの拍手がおこります。次の9番打者には、1-1後の外角高めをライト前かと思われるライナーを打たれましたが、その痛烈なあたりを人文学部3年の内川右翼手がダイビングしてダイレクトキャッチ。何としても戸田のデビュー戦でヒットを打たせまいとする高知大ナインの思いが伝わるファインプレーでした。次の左のトップバッターは1−2から外角高めの球でショートフライに打ち取りました。まずまずのピッチングです。ただ、土佐高校時代の右足に体重をためて大きく沈むフォームとは違って、ネット裏正面からは、彼の背番号99は投球モーションの中では見えませんでした。
 さて、最後の9回裏は2番から始まる中軸打線です。しかし、先頭打者を内角球でつまらせバットを折るサードゴロ。3番には外角カーブでひっかけさせてショートゴロに打ち取り、最後の4番バッターには内角のストレートから入り、外角カーブを2球見せ球としてもう1球内角ストレートで2−2としたあと、ウィニングショットはインコース膝元のシンカー、バットは空を切りました。・・・ゲームセット。
 試合後、小松監督から「120%の出来」とほめられたアッパレな投球内容でした。

 私達の戸田浩司は、もう一度野球をしたいという強い意志で難病を克服し、本人が望んだとおりマウンドに登って、見事に支援して下さった多くの皆さんにご恩返しをしてくれました。 
 浩司、ありがとう。そして何よりも今日の浩司の力投は、今も難病に苦しむ患者の皆さんに、大きな力を与えてくれると確信します。骨髄移植手術をお待ちの方々の希望をつなぐ30万人登録まであと1万6千人です。私達も、浩司に励まされて、「骨髄バンク8万人登録運動」をやりきりましょう。
坂本レポート26 2006年10月11日 水曜日
 自宅療養を続けていた戸田浩司君が、今月2日・月曜日から念願の高知大学教育学部へ復学しました。
 講義は月・木・金が午前8時50分から12時までの90分授業2コマと午後も2コマで4時までびっしりのフル勉強。火曜日だけ午前2コマの昼までで、水曜日は講義無しのため通院しています。初日はさすがにつかれたとみえて、お父さんが帰宅した時には熟睡していたとか・・・。しかし、元気に頑張っています。多くの皆さんのご支援のおかげで、この時を迎えることができました。ありがとうございました。投薬も徐々に減って、食欲も回復してきています。これからも、温かく見守ってください。
坂本レポート25 7月11日 火曜日 
 午後2時20分、戸田浩司は大きな白いマスクをして、ご両親とともに母校に戻って来ました。高知の病院から一時退院し、移植手術をするために大阪の病院に向かう前、本人とご両親が来校されて“ささやかな激励会”が開かれた、あの北風がビュービュー吹いていた2月4日から数えて、157日ぶりの帰校でした。
 「戸田浩司君支援会」会長の池上校長先生に、「よう帰ってきたね、まァどーぞ、どーぞお掛けになって・・・」と、ご両親と浩司が校長室のソファーに促されて腰をおろしたなり、「暑いですから、上着をぬいでください。」という池上校長の言葉もそこそこに、浩司のお父さんは背広姿のまま、「ありがとうございました。おかげさまで、退院することができました。」とお礼の言葉をきり出されました。「校長先生はじめ、先生方のおかげで・・・」と言われるお父さんの言葉をさえぎって「いやいや、そりゃ本人の力と頑張りですよ。しかし、当人はもちろんですが、お父さん・お母さんもよく頑張られましたね・・・。」とこの間の厳しい闘病生活を、ご家族が力を合わせて乗り越えてこられた経過をじっくりと反芻しながら、池上校長はご両親のご苦労をねぎらわれました。「もっと早くにお礼のご挨拶を、と思っておりましたが・・・」とお父さんが言われ、お母さんからもお礼の言葉とともに「良くなったように思われると、すぐに悪い状態にもどることの繰り返しでしたので・・・」と話されると、「病状の変化の様子は、坂本先生から逐一報告を受けておりましたので、よく存じております。まだまだ完全に治ったというわけではないのですから・・・、私の息子も科は違いますが病院におりますので、どうぞ何かの際には何なりとご相談になって下さい。」と応えたあと、校長先生は浩司に向かって「無理はせられんぞね。長い人生のうちには、1年や2年はどうということはない。じっくりと、大事に体調をもどしていきなさいや。」と孫に語りかけるように、優しく言葉をかけられました。「はい、ありがとうございます。」と応えた浩司とご両親は、「そろそろ、先生方もお集まりのようですし・・・」と促され、校長室での挨拶をすまされて、隣の応接室に移りました。
 応接室には、2月4日に“ささやかな激励会”を開いてくださった先生方が、今回も“ささやかな歓迎会”を催そうと、3人をお待ちでした。あの時・・・浩司が大阪へ出発する時に“がんばってきーよ”と先生方皆さんが拍手で送ってくれたのと同様、帰ってきた浩司と浩司の闘病を支えたご両親に“おかえりなさい”の拍手がおこりました。お父さんが直立して、退院することが出来たことのご報告と、お集まりの先生方に力強いご支援をいただいてきたことに対する、心からのお礼のご挨拶を述べられました。そして、ご出席の先生方お一人お一人から、浩司とご両親に対してあたたかいねぎらいとお祝いの言葉が続きました。中でも、重松先生の「これからも、浩司君は私たちの灯台=ライト・ハウスでいてください。」というメッセージが、先生方の思いを集約していたように思います。私たちの戸田浩司は、これからも病気と粘り強く闘いながら、皆に生きる航路を照らしてくれる光として、輝き続けていってほしい。そういう願いをこめて、これまでの彼の不屈の姿勢をたたえ、さらにこれからも彼の闘病を支えたい、という先生方皆さんの気持ちの現れた、何よりの激励の言葉だったように思います。このささやかな“おかえり浩司歓迎会”の結びに、先生方からの一語一語をかみしめながら聞いていた浩司本人から、お礼の言葉と力強い確かな決意を聞いて、会はお開きとなりました。
 「野球部の高多監督・三木部長は、選手権大会の予選をひかえて、今グラウンドで練習をされているから、これから新グラへ行こうか?」と呼びかけると、浩司の目がカッと開いて、「ええ!」とうなずきました。その場におられた先生方から、「野球、やりたくなるんじゃないの?」とささやかれて、浩司の目はニッと笑みをこぼしました。台風3号の遠い影響か、黒い雲のたちこめるグラウンドに入った浩司とご両親は、15日に迫った大会初戦に向けて、練習に励む野球部のバックネット横に着きました。三木部長が出迎え、高多監督が「おかえり」と声をかけた後、「集合!」の号令がかけられました。部員たちは練習を中断して、それぞれの場所から全力でバックネットまで駆けつけてきました。つい2年前、浩司も期末考査を受けながら、他の部員とともに、このグラウンドで甲子園を目指して練習に励んでいたのです。その時1年生だった連中が、今は最後の夏を目前に部をリードする最上級生です。浩司が部員たちの前に進み出ると、部員たちの間にキッという緊張感がみなぎりました。「皆のおかげで退院できました。僕もこれから復学に向けて頑張りますから、みんなも是非ベスト4に進んで、僕たちが敗れた高知商を破ってください。」と、確かな声で後輩たちを励ましたのです。厳しい闘病をつづけている先輩からの力強い激励の言葉を受けて、直立不動の姿勢で耳を凝らして聞き入っていた部員たちの顔からは、新たな決意の色がキラキラと輝いてきました。「胴上げしたいところだが、そうはいかないので、皆でお祝いの拍手だ!」という高多監督の音頭で、部員一同から浩司とご両親に、心のこもったあたたかい拍手の花束が送られました。昨年9月の発病以来、氷雨降る厳寒の朝も、新緑あふれる春爛漫の時も、嵐のような風の日も、グラウンドに戻ってくる浩司の姿を待つ高多監督の、真っ白なユニフォーム姿がありました。浩司が、退院の報告とお礼ばかりか、この大切な夏の大会を前にした後輩たちに、激励の言葉を述べてくれるとは・・・、高多監督の傍らにたたずんでいた私には、目頭に光るものが見えたのです。
 グラウンドをあとにする浩司とご両親の3人の背中には、3箇所のバッティング・ゲージから放たれた爽快な打球の音が、カーン、カーンと心地よく聞こえていました。耳にのこる白球の快音は、まるで「戸田先輩ガンバレ!! 僕たちも甲子園目指して精一杯がんばります!」と、叫んでいるようでした。
 私の脳裏には、彼・戸田浩司が再びユニフォームを着て、マウンドに立つ姿が浮んできます。
坂本レポート24
6月25日 日曜日
 皆さん、久方ぶりに戸田浩司の現況を報告します。二ヵ月以上あいた坂本レポートです。

 今日は、4月6日に大阪の病院で面会した時以来の、浩司との面談でした。
 あの時の、全身にGVHD(拒絶反応)が猛烈に出始めた頃とは違って、かつて高校時代にしばしば見かけたような、丸刈りの髪がややのび出して、もみ上げもあごの方までつながってきていました。長く重い闘病生活の足跡をずっしりと感じさせる、しばらく日に当たっていない肌の白さが目につく顔色です。お父さん・お母さんを交えて、久しぶりの再会の席でした。今は熱はなく、三度の食事はとれているけれど、間食はしていないということで、持参した甘いお菓子には手をつけませんでした。この浩司の自宅の居間は、2月10日にスーパーバンドが、翌日から大阪へ移植手術に向かう浩司を励ますために、激励ミニライブを開いて「笑顔のゆくえ」を歌ってくれた場所です。あれから四ヵ月・・・、凄まじい闘病の様子を振り返りながら、「よく頑張ったね〜、先生だったらとても耐えきれなかったと思うよ。」という言葉が、つい口に出てきました。
 そして私は、「今日は、一つニュースを持って来たんだ。」と切り出しました。「読売巨人軍の原監督と上原投手がドナー登録をしてくれて、7月1日以降の東京ドームでのゲーム中に、オーロラビジョンで試合観戦のファンの方たちにドナー登録を呼びかけてくれることになったんだよ。」「へぇ〜」「君が皆さんに『僕だけではない、骨髄移植を待っている患者の皆さんのためにドナー登録を!』と呼びかけたことを、今年の正月に他の球団にさきがけてジャイアンツが受け止めてくれて、ファン感謝デーでの『戸田浩司君支援会』のビラ配りから、宮崎でのドナー登録会開催を支援してくれた延長で、今度は公式戦時に巨人軍の監督自身が、骨髄バンクへのドナー登録を呼びかけてくれるんだ。」「すごいですね」「8万人登録運動を始めて半年、あと5万2千人に迫ってきたけれど、30万人達成もそう遠くはないだろうと思うよ。そういう意味では、戸田浩司は歴史的役割をはたした、と言えるかもしれないな・・・」という話に、浩司はやっと笑顔を見せてくれました。よかった、笑顔がみられた・・・。まだまだ予断を許さない病気との闘いを続けている浩司からは、明るい笑顔はみられないかも・・・と、内心不安に思っていた私は、ほんとに久しぶりの彼の笑顔にホッとしました。
 さて、浩司の容態を心配して、幾度もこのホームページを開いて下さっていた皆さん。皆さんに浩司の病状をお伝えできなかったことへのお詫びと、この間の事情を遅ればせながら釈明したいと思います。実は彼は手術した大阪の病院から、5月に高知大医学部附属病院に転院して治療を続けておりました。その間、弟さんの造血幹細胞移植後の凄まじいGVHDに耐え、発熱と吐き気・下痢と不眠症に襲われながら、手術成功かそうでないかの目安となる“移植後100日目”のその日には、あろうことか「再発か!」とも思えるEBウィルス増殖を示す高次の数値の告知をうけるなど、皆さんにはお知らせできない窮状が続いていたのです。一番恐れていた「再発」の疑い・・・そうだとするならば、この三ヵ月余りに及ぶ想像を絶する苦しみとの闘いは一体何だったのか・・・。私たちは、彼との面会をも臆する状況が、何とか好転してくれることをひたすら待ちながら、今日に至りました。そしてやっと面会がかなったのが実情です。今、彼は自宅からの通院を続けながら、大学への復学を期して懸命にリハビリを始めています。戸田浩司を支援して下さっている多くの皆さんにご心配をおかけしながらも、お伝えできる程度にまで容態の好転を待ってから、皆さんにお伝えするべきだと判断していた私たちの苦悩を、どうぞご理解下さい。そしてさらに、ご両親のご要望もあり、かつて程ではないまでも、現在まだ厳しい闘病中であることをご理解いただいて、面会・お見舞い等はしばらくご遠慮いただきたいと思います。
 私たちの戸田浩司は、皆さんの熱い想いと心からのご支援のお蔭様で、退院することができましたが、彼は今も血液難病と闘いながら,引き続き懸命に頑張っています。必ずや、彼が大好きな野球のユニフォームを着て、マウンドに再び立つことを信じて、心からのご支援を続けていただきたいと思います。皆さんの変わることのない、暖かいエール・ご声援をお願いいたします。

 この<坂本レポート24>は、作日(6月30日)の高知大学医学部附属病院での、浩司の診察と検査結果を待って、ご家族との協議の上、公表することとなりましたので、HPへのアップが本日(7月1日)になりましたことを、ご了承下さい。お詫びかたがた付け加えさせていただきます。
 広報部
坂本レポート23
4月21日午後3時30分
 待ちに待った浩司からのメールが届きました。
 「やっと今日、山を越しました。神様は最後まで楽にはいかせてくれませんでしたが、なんとか乗り切りました。皮膚のGVHDが落ち着いてきて薬を減らしていってます。大量の薬の副作用などでここ数日は腹痛や熱で苦しかったですが、がんばれました。今日の検査結果もよくなってきているのでこれから薬を減らしていって問題なければ退院に近づくのではないでしょうか。まだお腹の調子は悪く食欲もありませんが、次第によくはなると思います。何もこれから起こらないことを祈るばかりです。」
 20歳の誕生日以来のメールです。実はこの間、浩司は眼をあけられない激痛と、横にもなれないほどの辛苦に耐えて耐えて、耐え抜いていたのです。そしてそれは、彼自身の『絶対に負けない!』という、驚くばかりの強靭な意志力によるところはもちろんですが、同時に多くの皆さんの、力強く熱い支援の声・応援のエールが、彼のGVHDとの壮絶な闘いを支えてくれていたのです。
 皆さん! 彼は頑張りました。この凄まじい艱難を克服したのです。私たちの戸田浩司は、これから少しづつ楽になっていきます。見守ってください。彼のこの険しい闘いの最終的な勝利を、必ず皆さんとともに喜び合う日が来ることを信じて。
 そして皆さん! 浩司の体にこれ以上の異変がないことを、心から願いましょう。
坂本レポート22
4月13日 木曜日
 今日4月13日は、浩司の20歳の誕生日です。誕生日を祝って、今朝「二十歳の誕生日、おめでとう。個室に入ったと聞きましたが、様子はどうですか?」とメール を送ったところ、返信が届きました。
「GVはかなりひどいですが、痛み止めで少しずつはよくなっているかもしれません。ひどいなりに、やはり日に日によくはなってきています。今はだいぶおちついています。あと少しの我慢です。最後の山場なので、頑張ります。」
というものでした。
 一人、個室で厳しい敵・・・GVHDと闘う浩司の二十歳の誕生日です。皆さん!浩司 に心からのエールを送って下さい。
坂本レポート21
4月6日木曜日
 2月5日のささやかな激励会以来、ほぼ二月ぶりに、戸田浩司に会いました。約束の午後3時に、4階の西病棟から車つき点滴台を転がしながら彼は現れました。家族談話室に座って対面すると、少しGVHD(拒絶反応)がきつく出てきているのか、痒そうな様子でした。
「どう、ちょっと痒そうだね」
「ええ、でも同じ症状の子が吐き気なんかがあるのと比べれば、楽ですよ」
「この点滴は、GVを抑えるヤツ?GVがかなりきついの?」 
「ええ、でも悪化する前に処置してくれているから心配ないです」
「食事制限しているの?」
「ええ」
「じゃあ、君の大好きな甘いものはダメだね」
「だめですね」
「今まで、先生の所に届けられてきている君支援の品物を持って来たから、楽になった時にでも  ゆっくり見ておいてよ。えーと、これは・・・」
  “ピー ピー ピー” 
いくらも話さないうちに、点滴終了間近という警報音が鳴りました。
「こりゃあ、もうすぐ終わりか、いつまでもここに居たらいけないね」
「そうですね、部屋に戻らないと・・・」
「じゃー、シンドイけどがんばって・・・」
 病院の正面玄関をでると、1本のモクレンが白い花を咲かせていました。満開のモクレンの花々を見ながら、浩司に満開の春が1日も早く来てほしい・・・。そう思いながら、N電鉄の準急電車に乗りました。帰りの電車で、浩司からメールが届きました。
『ありがとうございました。できるだけ、こっちに居るようにしてもらうので、転院は少し伸びますが、今月中には転院が出来ると、自分的には思っています。』
『こちらこそありがとう。無理させてしまったね。出来るだけいい状態でこちらに戻って来たらいいのではないですか?ウィルスの結果がいいことを祈っています。新幹線で帰ります。頑張ってください。』
 車窓から覗いた沿線の土手や団地には、桜の木々があちこちで春爛漫の宴を催していました。必ず、来るさ。必ず来る。浩司にも、爛漫の春が必ず来る。そう信じて帰路に着きました。 
坂本レポート20
2006 3月28日火曜日
 浩司のお父さんから電話が入りました。
「検査の結果が出ました。弟の分だったそうです。」
「ということは、移植は成功・・・ということですね?」
「はい、おかげさまで成功でした。」
「よかったですねー、おめでとうございます。」
「はい、ありがとうございます。」
「少し、肩の荷がおりましたでしょう。」
「ええ、とりあえず一段落といったところです・・・」
「早速、推移を見守ってくれている皆さんにHPでお伝えします。何件か、様子をみてお届けしようと預かっていた、支援して下さっている方々の応援の品物がありますが、いつお届けしましょうか?」
「ずーっと泊り込んでいた家内も、2〜3日で一度高知に戻ることが出来そうですから、戻ってきたらご連絡します。」
「はい、お待ちしています。」
 
 成功でした。よかった・・・。
 
 浩司からもメールが来ました。
「今日検査結果がでました。弟の血液に変わっていて移植は成功です。あとはウイルスが減っていればいいです。・・・もう少しのしんぼうです。」という内容でした。
 9月の発病から7ヶ月・・・、色々ありました。もう少しの辛抱・・・であってほしい。
 戸田浩司君を支援して下さっている皆さん、見守りましょう。彼の体は闘っているのです。
坂本レポート19
3月20日 月曜日 18:19
 浩司からメールが届きました。「今日、個室から大部屋に移動しました。食欲もぼちぼち出てきています。GVHD(拒否反応)も今のところ顔や手が少し痒い程度です。あさって、弟の血にほとんどなっているかの検査をします。ウイルスがいなくなっているかの検査も近いうちにして、成功していれば転院も近いそうです。まだ、薬を点滴でしなければいけないので、退院とはいきませんが、じっくり時間がたつのを待つのみです。」という便りでした。よかった・・・。
 お父さんと、昼間に電話でお話したところでは、「移植後、3週間たちました。情況がよくて、病院内を歩いていいと言われていますが、本人はあまり歩いていないようで、看護婦さんにハッパかけられています。」というお話で、「そんなに容態はいいのですか。」という私の質問に、「ええ、今日から4人部屋です。白血球も血小板も正常値になっているのですが、これが本人の分か三男の造血幹細胞が作り出したものか、今週の検査で判明します。おそらく、9割の比率で弟の方と考えられる、と主治医の先生はおっしゃっていました。今までで手術後退院したのは35日が最短だそうですが、もしかするとこの記録を更新するかも・・と言われているようです。」
「そうですか、そうだといいですね。」
「はい、また何か変化があったら、ご連絡します。」
「ありがとうございます、朗報をお待ちしています。」
  今、浩司の体内で活動し始めた血液は、弟さんの造血幹細胞によって生み出された分であると思います。そして、その血液中の強い白血球が、EBウイルスを叩き潰してくれるはずだと信じます。この週を、浩司を苦しめてきたEBウイルス根絶の週にしてほしい・・・。心からそう思います。そして、明日の午後1時からの帯パラでのビラまきの成功を願いながら、「8万人登録運動」支援をしてくれているスーパーバンドのワンマンライブに、応援に行きたいと思います。
坂本レポート18
3.13日 PM 0:50
 戸田浩司のお父さんから電話がはいりました。
「浩司の白血球が11,000で、数日間の発熱の時は20,000ぐらいあったのではないか、と主治医の先生はおっしゃっていました。」
「浩司の具合はどうですか?」
「きのうから熱もなく、食欲もまあまあ戻って、普通食になりました。あとは、白血球が本人のものか弟のかの検査が今週中にあって、弟のであれば、今回の手術は成功だったということだそうです。」
「そうですか、弟さんのほうはどうでしたか?」
「弟も異常なしです。」
「よかったですね。」
「はい、ありがとうございました。」
 ご支援下さっているみなさん浩司の経過を見守りましょう。
藤川球児が押さえで登板し・・よかった。<坂本レポート17>
3.4 土曜日 
 「体調はいたって普通です。食欲はないですが。1日がすぎるのをただぼーっと過ごしています。」と浩司からメールが入りました。
 お父さんに電話すると、「吐き気はないし、容態は落ち着いています。食欲がないといっても、病院食の“煮つけ”などは、箸をつけたなり食べませんが、市販の滅菌されたスパゲティーをチンしてもらって食べていますよ。」とのことでした。
 「昼間はどうしていますか?」とうかがうと、
 「だいたい、午後は昼寝をしています。時々気が向いたら本読んだりしていますが、ムカムカはそれほどないようです。ウガイやなんかを几帳面ににしています。感染症の怖さをいやというほど知っていますから・・・。2週間のうちに、感染症はもちろん、拒否反応も出てこないこともあるそうです」
 WBCの対台湾戦を見ながら、藤川球児が押さえで登板し、二塁打を打たれたあと、無難にゲームセット・・・よかった。浩司はこの試合を見ているそうです。 
日本では症例が少ないようなので・・<坂本レポート16>
3.1 水曜日 PM8:08
 「浩司は今、全日本と巨人との野球をTVで観ています。落ち着いてます。」と、お父さんの電話です。
 白血球をほとんど0にしてから弟さんの造血幹細胞を移植したので、アイソレーダーと呼ぶ空気清浄器の作動する無菌室でいるそうですが、これから2週間、何より感染に気をつけた生活です。
 「元気なのですね。」
 「ええ、食欲もあります。」
 「どんなメニューです?」
 「通常の食事でなくて、完全に1つ1つパックされた無菌食で、今日はパンが主体の食事でしたが、足りなくて、ビニールにパックされたお結び1コ追加で食べていました。」
 「弟さんは、昨日退院されたんですね。」
 「ええ、今私の姉のところでのんびりしています。2週間後に検査がありますし、これからドナーとしてのモリタリングされることにも同意しました。末梢血による造血幹細胞移植は、まだ日本では症例が少ないようなので、弟のデータが今後に役に立つようですから・・・」
 「今夜は、どうされますか?」
 「母親と交代して、今日は私が泊まります。浩司はさっき、風呂に行ってシャワーを浴びて、落ち着いています。これから2週間は、弟の血が浩司の体内で増えていくのですから、なんらかの反応が必ずあるはずだといわれています。」
 「そうですか、1日1日を大切にされて下さい。」
 「はい、ありがとうございます。おやすみなさい。」
 お父さんとの話を終えて、浩司の容態が変わりないことを祈りながら、電話をおきました。
2月28日という日<坂本レポート15>
2.28 火曜日 
 久しぶりに、中学野球部の練習を放課後の最初から見ていた今日、最後のノックの終わり頃、戸田浩司のお父さんから電話が入りました。「つい先ほど、浩司に弟からの細胞移植が終わりました。注射器2本分を点滴のチュウブ管から注入して、数分で終了でした。移植は特に手術室へ行かずに、病室でやってしまって、本人は変わりなく落ち着いています。」という、第一報だったのです。「弟さんの方は、どうですか?」と問うと、「今日は朝8時頃から昨日同様4時間取りまして、お昼には終わって弟は退院しました。」ということでした。
 「無事終了しましたので、ご連絡をと思いまして・・・」
 「ありがとうございます。練習が終わり次第、一報を編集長に送りますから・・・。これからですね。」
 「そうです、これからです。変化があれば、お知らせします、では。」
 「お疲れでしたでしょう、ありがとうございました。」
 ノックが済んで、同じグラウンドで練習の最中だった高校野球部の高多監督・三木部長・中内コーチに浩司の父親から手術無事終了の一報を伝え、練習を終えると、私は職員室に急いで戻り、着替えながらパソコンのスイッチを入れました。すると、ほぼ同時に浩司からメールが入ったのです。ちょうど7時に入ったメールを読んで、私はこりゃあ私の報告どころじゃない、急いで編集長に電話しました。「浩司本人から、無事終了のメールが入ったから、転送します。なるべく早くアップして下さい。」「了解しました。先生の文は・・・」 「僕のは、あとあと」
 このやり取りの後、私は支援会長・池上先生のご自宅へ電話で報告しました。「そうか、無事終了したか。ご苦労さん。」
 皆、今日のこのことを固唾を呑んで見守っていたのです。編集長、急いで頼むよ・・・と念じて、しかし編集長は一人でこの一報をパソコン用と携帯用の2つ次々にアップ作業してくれているのを、すまないなーと思いながら家路に着きました。
 これからまずは2週間、感染・拒絶反応等との闘いが始まったのです。なんらかの変化が必ずあるはずですが、出るならばそれがなるべく遅く、そしてなるべく小さく・・・、それが彼のその後の命と闘病内容に直結します。
 今日を見守ってきた皆さん。ともに、これからも毎日浩司を見守り、静かに応援していきましょう。
 もう一つ皆さんにお知らせしておきたいことがあります。浩司のメールに対して返信している最中、藤川球児君の高知商業時代の監督・正木陽先生から電話が入りました。「ワールドクラシックを前に、球児が戸田君にメッセージを送れなかったことをお詫びしてほしい」旨の伝言電話でした。「先生、浩司から今、弟さんからの造血幹細胞移植が終わったというメールが入ったところです。浩司の病室には、天野君の帽子と球児君の“一緒に頑張ろう”の色紙が見守ってくれています。どうぞ球児君に、ワールドクラッシックで日本代表として、全力で投げてくれるようにお伝え下さい。そのことが、戸田浩司を勇気づけ、何よりの浩司の応援になりますから。」 正木先生は、「わかりました。球児に伝えます。」と応えてくれました。
 多くの人の心を動かす浩司の生き方に今日も触れて、28日という大切な日をすごすことができました。
私は、感謝して床に就きます。
戸田浩司君のお父さんから<坂本レポート14>
2.27 月曜日 PM7:45
 戸田浩司君のお父さんからお聞きしたことを、お伝えします。「今日のところは順調です。放射線を1時間づつ2回、いろいろと方向をかえて照射したので、やや負担だったようです。でも、今は夕食もたべて食後の薬も飲んで、落ち着いている」とのことです。弟さんはどうでしょう、とうかがうと、「弟の方も順調です。朝9時半から4時間、午後1時半までやって順調に量が取れて、午後は横になっていた」そうです。
 浩司君の病室には、お父さんとお母さんが交代で付き添っています。枕元には、広島カープの天野浩一投手が1月15日に面会に来てくれた時に持参してくれた、真っ赤なカープの帽子(ツバの内側に“強気”と書いてある)が置いてあり、壁には阪神タイガースの藤川球児投手が、ワールドベースボールクラッシックを前に、沖縄から送ってくれた“戸田君が輝き続けることを信じて、一緒に頑張るぞ!!の色紙が立てかけてあります。
 お父さんは、「浩司は、明日の夕刻ごろになる移植手術に向けて、口数が少ないですが、落ち着いています」と話してくれました。 
 「お父さんもお疲れでしょう。」
 「いえいえ、明日、また様子を連絡します。」
 「ありがとうございます、待っております。」と電話をきりました。
 浩司とご両親、そして弟さんとお兄さん、この家族はがっちりとスクラムを組んで、静かに明日に向かい、真正面を向いて進んでいます。
 そして、それを見つめる全国の皆さんもまた、成功を祈りながら、明日を待っています。
 私たちは、戸田浩司君の家族の力を信じて、明日を迎えたいと思います。
戸田浩司君のお父さんから<坂本レポート13>
2.26 日曜日 PM 7:12
 お父さんからのご連絡を皆さんにお伝えします。「浩司の様子は、順調です。抗がん剤の作用で食欲はありませんが、昨日・今日のオープン戦、阪神=オリックス戦をTVで観戦していた」そうです。弟さんの方も順調だそうで、連日の増血処置で体が重く、夜には少し熱っぽくなり、やや腰の辺りが痛いそうです。腸骨で盛んに兄・浩司君に移植するための血を造っているからでしょうか。弟さんは、今夜から入院で、明日から末梢血の造血幹細胞の抽出が始まるのです。順調に白血球が増えている、とのことでした。
 浩司自身も、明日から放射線照射が開始され、27・28両日で抽出された造血幹細胞の注入が、28日になされるわけです。お父さんのお話では、「28日の注入はおそらく、夕刻から夜になるのではないかと思います。浩司本人は、静かにその時を待っている様子です。」とのことでした。
 私たちも、戸田兄弟の明日・明後日を、成功を心から念じながら、静かにじっと見守りましょう。
<坂本レポート12>
2.10  金曜日
 スーパーに勤めるドラとゴッチのスーパーバンド2人が、明日浩司が大阪転院と聞いて、本業の仕事の昼休み時間に、浩司の自宅にかけつけました。ギターとハーモニカをもって。浩司の家のリビングルームは、にわかライブ・コンサート広場になったのです。
 麒麟麦酒のコマーシャル・ソングの
 ♪まけるな、まけるな、まけるなよ♪
の曲と、
 「骨髄バンク8万人登録運動」応援ソング ”笑顔のゆくえ”の2曲。

♪言葉にできないほどの 想いも涙も さびしい夜も
   そばにいてくれた 君の笑顔で支えてくれた
     この手に感じた 君のあったかい愛の笑顔
        ・・・
♪笑顔はみんなの幸せ運んでくれるもの
   笑顔はみんなに勇気をあたえてくれるもの
    笑顔はみんなを悲しみから救う魔法の力

♪うれしい時 悲しい時も 君が伝える笑顔の行方
   幸せや喜びを求め 今日も人は旅に出る
     そして手を取り合い 共に生きる事
        忘れちゃいけないよ
♪無限に感じる優しさの中で 生きてる幸せ
  あなたがまた笑って 
    ただいまって言えますように・・・。

 歌い終わってしばらくのあいだ、スーパーバンドにも、聞いていた浩司にも、数秒の静寂の“時”がありました。
 言葉を超えたメッセージを、渡した、受け止めた・・・その“間”だったような気がします。「がんばれ!」の色紙を渡したスーパーバンド2人は、浩司へのライブ・プレゼントをすませると、」急いで職場に戻るしたくをしていました。彼女たちの笑顔がステキな、そして見送る浩司の笑顔がまぶしい今日でした。
 転院を明日に控えたこの日、新たな地での入院に備えて荷物を準備する浩司には、正直、一抹の不安があったのです。ドナーは見つかるだろうか・・・、弟の分でやることになるかもしれない・・・、さい帯血でやるかも・・・。でも、ふっ切れたように思います。どういう手段を用いても、K先生は最善を尽くしてくれるはず。信じて頑張ろう。僕は一人じゃない。
 「明日の朝は、見送りにいかないから。」
 「がんばります。」
彼の言葉の奥に、本物の強さを感じて、「信じていい、信じていいんだ、人の心の強さを!」
 浩司に教えられっぱなしだったこの2ヶ月をふりかえりながら、私は校務へ戻りました。
 戸田浩司君を支援して下さっている皆さん、しばらく『坂本レポート』はお休みです。 
<坂本レポート11>
2.05
  日曜日
 今日は、ことのほか寒い日でした。北風ビュービュー・・・。でも、私たちの心はほこほことしています。
 長い闘病生活の一区切りとして、戸田浩司本人とご両親、池上会長はじめこの間支援されてきた方たちによるささやかな戸田浩司君激励会がおこなわれたのです。
  この間の浩司の闘病の経過と現状を報告し、浩司のお父さんから、支援してくれた皆さんへのお礼のご挨拶のあと、出席者一人一人から心温まる激励の言葉が送られました。2〜3ご紹介すると、理科で「ランス=アームストロングから応援メッセージをもらおう運動」をされている小笠原先生から、「精神免疫学というのが認知されつつあるけれど、患者自身の『病気を治す!』という強い気持ちが、治癒を促進させるそうです」という話をいただきました。高校野球部の三木先生から、「君一人やないき、野球部の現役もOBもみんな応援しちゅうきね」という言葉、そして59回生の村山さんからは、「スーパーバンドがいい曲作ってくれました。笑顔で一緒にやりましょう。」・・・。出席されたお一人お一人から、暖かいそして心強い激励のエールをもらって、浩司は応えました。「ありがとうございます。これからも、僕だけでない、移植を待っている皆さんのために、一緒に頑張りましょう。」と浩司の力強い言葉で結びとなりました。
 誰からとなく拍手がおこりました。
 がんばれよ、浩司!皆がアルプス・スタンドで君の闘いを全力で応援する。怖じず怯まず、果敢に君が君のマウンドで闘ってくれる事に、私たちは感謝し勇気をもらいながら・・・。
<坂本レポート10>
2.03  金曜日
 愛知県のSさんから、小包が届きました。あけてみると、中からミサンガ・携帯ストラップ、DVD4〜5枚、藤川球児の沖縄自主トレ写真数枚、そして青い包み紙に赤いリボンがかけてある小さな包み・・・お電話でお礼を言うと、「ミサンガとストラップは、球児君のためにワールド・クラシック用に特注したので、22番とTHマークを編みこんでいます。球児君は、昨年1年間、私と娘(6歳だそうです)が送ったミサンガを左手首に巻いて怪我なく頑張ってくれました。今球児君がしてくれている青いのは、今シーズン開幕用の見本ですが(同封のキャッチボールをしている写真の左手首には確かにブルーのそれが写っています)、3月29日の開幕には間に合うように作ってもらっています。よかったら、開幕用の球児君とおそろいの送っていいですか?」と言われるのです。「今日、浩司に直接渡しますから、聞いてみましょう。」と答えて、練習を終えて校務を済ませた私は、浩司の所へ向かいました。
 「水曜日に注入した抗がん剤の影響で、2〜3日便秘が続き、今トイレ中です」というお母さんに先に小包を開けてもらいました。黒いミサンガとストラップのオリジナル・セットに「へ〜」と驚かれたお母さんのあとに、小包の中味を開け始めた浩司の目が、ゆるんでくるのがわかりました。中に、Sさんからのお手紙が小さな薄紫色の封筒にはいっていましたので、「浩司読んでみたら・・・」と促しました。「はじめは、お子さんが球児さんにミサンガを送ったんだって、沖縄からだよ・・・」 興味深々の私が、「ネ、その包み何だろうね」とまたまた促すと、浩司は赤いリボンをほどきました。中からでてきたのは、緑色の四葉のクローバーのキーホルダーでした。「お礼の手紙書いたら・・・浩司」と言うお母さんの声に、うなづいた浩司の横顔には、多くの人の支援の声に包まれた幸せがただよっている様に、私には見えたのです。
 何か、ほっくりした気分で私は帰路につきました。
<坂本レポート9>
2.01  水曜日
 浩司クンは、右腕に点滴をしています。週に1度となった水曜日の抗がん剤投与です。どう?と聞くと、ええ、前のほどじゃないから、大丈夫です。と、終わるまで、しばらくかかる点滴バッグの透明な液体をチラリと見やりながら、キッとした目で応えました。
 昼食前なので、移動テーブルの上には運ばれてきていたお昼が、のっています。今日は、カステラが一切れついていました。点滴がすんだら、食べるのです、がんばって・・・。午前中は他の点滴もあったので、日課にしている歩行訓練は、午後になります。もう雨もやんできたし、散歩にはいいネ。ええ。古文の勉強ははかどっているかい?今、小休止です。そうだね、抗がん剤の日は勉強お休みだ。でも、お風呂はいきます。風呂が楽しみだネ。ええ。じゃ、先生6時間目に間に合うように帰るよ。はい、ありがとうございました。いいんだ、そのままそのまま、また・・・。
 病室で一人闘っている浩司に、言葉をかけるしか何もしてやれない・・・。浩司は一人、黙々とひたすら、ドナーが現れるのを待ちながら、闘っています。
<戸田浩司君の病室風景レポート8>
1.30  月曜日
 大学病院の駐車場に車をおいて、病棟入り口でカサたてに傘をさしこみながら、支援会の携帯電話に出ました。「愛知県のSといいます。今、藤川球児さんを追っかけて沖縄にいます。藤川球児さんが、1年間手首に巻いてくれたミサンガを戸田浩司さんにつけてもらいたいと思って・・・。実は、私は24歳の時EBウィルス感染症で苦しみました。私の場合は「骨髄移植」はしなかったのですが、今は回復して看護士の仕事をしています。よかったら、藤川さんのトレーナー・Hさんと藤川さんの二人につけてもらおうと思って作ったのと同じものを送っていいですか・・・」というものでした。事務局あてに送ってもらえば、本人にお渡しします、とお礼を言ってから病棟に入りました。
 病室の浩司の快調さは3日前と変わりなく、風呂上りの彼は、食欲さらに旺盛でした。昼は、病院食では当然足りず、カツカレーセットをさらに追加して食べたそうですが、私が行った夕食後、お父さんと談話室で話していた20分ぐらいの間、お母さんが持ってきてくれたピザ2枚をぺロリとたいらげて、まだ足らん、と不満げでした。お父さんは、「あまり太られんぞ、移植するにも、体重が重いと骨髄の量が多く必要になるけんのぅ・・・」 でも、食欲があることは体調のいい証拠。散歩訓練で「足が筋肉痛です。」という浩司の顔は、移植手術に向けて体力をつけるんだ、という強い意思に後押しされた厳しさを漂わせていました。
 さあ、明日は卒業式。浩司たちを送り出して、80回生の幸を祈った卒業式のあの日が、まためぐってきたのです。子供たちの羽ばたく明日を思い、浩司たちの時と同様、心から彼らの洋々たる前途を祝して、「向陽の空」を高らかに斉唱しよう。そして、81回生への大いなるエールとともに、浩司への応援をご列席の皆さんにお願いしよう。
<戸田浩司君の病室風景レポート7>
1.27  金曜日
 昨晩の、読売巨人軍公式HPへの「戸田浩司君支援表明」のあと、支援会メンバーの千頭さんの自宅には、時ならぬX'masプレゼントが届きました。届けたサンタクロースは、支援会のスタッフ・村山隆司(59回生)さん。あて先は、戸田浩司君の病室です。プレゼントの中味は・・・それは内緒、だって一月遅れなのですもの。
 内緒・ナイショのX'masプレゼントは、「ちょっとあけてみましょうか・・・」という千頭さんの誘いを、坂本は「ダメ駄目、これは浩司へのプレゼントじゃろうが!」と誘惑をふりきり、浩司の待つ病室へ愛車を走らせたのです。こうして、今夜千頭さんトナカイから坂本トナカイにリレーされた、内緒・ナイショのX'masプレゼントが、戸田浩司の病室に届きました。浩司と浩司のお父さん・お母さんが、このプレゼントをあけてくれました。一月遅れのX'masプレゼント・・・それは、戸田浩司君をはじめ、骨髄移植を待つ多くの皆さんのために、スーパーバンドが作詞・作曲してくれた“新曲のCD”だったのです。曲名は?ごめんなさい。
 申し訳ありませんが、皆さんより一足先に私は浩司と浩司のご両親と一緒に、この曲を聞かせてもらいました。いい曲でした。いい詞でした。私のような50を超えたおじさんでも、浩司のパソコンから流れるこの歌にジーンと来てしまって、一回聞いただけなのに、テーマが耳に快く残っていました。聞いたあと、皆で顔を見合わせながら、しみじみと「うん、いいですね・・・。」といわれたおとうさんのつぶやき・・・、トナカイ役をつとめた私の心に、ポッと明かりがともりました。
 浩司が帰り際に、「先生、昨日のHPレポートの中で、去年のボクのセンター、古文30じゃなかったです。漢文も含めてでした。」と言いました。黙ってりゃいいものを、こいつはなんて正直なんだ、と思いながら「わかった、訂正を編集長に言っとくよ。」と言いながら、ふとまた見ると昨日より問題集・参考書が増えている様子でした。「もう少し時間ができたら、『論語』を勉強したいんです。」 浩司の言葉に、あッ明日の予習はしてあったか・・・とわが身のおろかさに気づかされ、早足で病室をあとにしました。廊下・エレベーター・出入り口を通りながら、私の耳の底からは、スーパーバンドのあの曲が湧いてくるではありませんか。どんな時でも笑顔で行こう、そうだ笑顔だ・・・。
 今夜も私は、浩司の病室から、生きる力をもらって帰ります。
<戸田浩司君の病室風景レポート6>
1.26  水曜日
 昨日(水曜日)の抗がん剤投与の影響がまだ少し残りながらも、食欲はもどって元気な浩司の鼻の下には、うっすらとヒゲらしいものが生えています。ここのところ、入浴は一日おきとなっているそうです。次の入浴は明日です。
 病室で「来月の2月から、高知新聞では『骨髄バンク・移植の現状と戸田浩司君支援の運動』をテーマとして、連載でとりあげる企画があるそうです。」と、浩司のお父さんからうかがいました。しかし、マスコミの取り上げというのは両刃の剣で、「骨髄バンクの現状を知ってもらい、ドナー登録の呼びかけを広める」という、「支援会」の運動の一方の柱を推進するためには確かに有効ではありますが、もう一方の「支援会」の活動の柱・・・戸田浩司とそのご家族の、プライバシーをふくめて治療に専念する環境を守っていく・・・という面では、かなりガッチリと防御のラインを強化しなければならないですね〜、と浩司とお父さんとの話し合いの上、合意して帰路につきました。
 病棟を出たところで、読売巨人軍広報のY氏から「支援会」に電話が入りました。かねて(正月明けに)同球団のスカウト・O氏から「読売巨人軍は戸田浩司君を支援します」ということが伝えられていたのですが、具体的な行動内容として、ジャイアンツのHP上に「戸田浩司君支援」をアップしたというのです。それは、1月29日のジャイアンツ・ファン感謝デーで、巨人軍の選手が「戸田浩司君支援会」の『骨髄バンク8万人登録運動にご参加ください』と呼びかけるチラシをファンの方々へ配り、2月から宮崎で始まる巨人軍キャンプでは、球団職員が5,000枚、キャンプ見学にこられたファンの皆さんに配布してくれるというものです。早速、支援会会長の池上先生にご連絡すると、「ありがたいことです」とお喜びでしたし、この間精力的に活動してくれた土佐高同窓会関東支部の二宮潔氏に電話すると、携帯電話が爆裂するかと心配してしまうほどの歓呼の声で、感じ入ってくれました。 私の教え子の一人である戸田浩司は、『こんな人たちにかこまれて、幸せ者だ・・・、』とつぶやきながら、私はわが家の扉をそっと押し開けました
<戸田浩司君の病室風景レポート5>
1.23  月曜日
 今夜私は、「炎の鉄人、ランス=アームストロングさんへ手紙を届け、戸田浩司君への応援メッセージを書いてもらおう運動」の発起人・小笠原先生からの戸田浩司へのプレゼント『ただマイヨ・ジョーヌのためだけでなく』単行本一冊と、その「運動」の賛同者にして、小笠原手紙原稿の英訳者・鎌田女史の声のメッセージ(MDプレーヤーに録音されたもの)を持って、病室を見舞いました。
 ベッドの横のイスに腰掛けてふと見ると、浩司のベッド上の移動テーブルには、古語辞典と古文の問題集・参考書が数冊のっているではありませんか。「浩司、これどうしたんだい?」と聞くと、一昨日、去年のセンター試験のことを思い出してくれた話の続きになりました。「センターで、現代文は96とってOKだったのに、古文が30点(?)台だったので・・・。漢文はいいんですけど、もともと古文が苦手でセンターでやっぱ失敗した。これから、古文の力をつけておこうと思って、ひさしぶりに勉強を始めてたんス。受験勉強と違って、今はこればっかりできて古文苦手だったけど、じっくりやってみると面白いス、時間があるので自分なりに研究できるし・・・。」
 ムム・・・。ここ数日の体調のよさで、階段昇り「自主トレ」(階段下りはまだ筋力が戻っていないので、次のステージのようです)、そして自分の足で歩いて外の空気を吸いに行く歩行訓練等を自力で積み上げている自信からか、「HPをプリントアウトして持ってこようか?」という私の言葉をやんわりと断った上、明日は自分の力で、病棟内にあるパソコンの見られる部屋に行って「戸田浩司君支援会」のHPを見に行くんです、と嬉しそうに話してくれるのです。私は、この逆境にある19歳の青年の、どこまでも前向きな姿に、またまた胸を打たれて、病院をあとにしました。
<戸田浩司君の病室風景レポート4>
1.21  土曜日
 今日午前、59回生・村山隆司さんとの「戸田浩司君支援大会」の第一回構想すり合わせで、一気にまとまった「スーパーバンドによる応援ソング作詞・作曲依頼作戦」が、村山隆司さんとの親しい関係からむしろ彼女達の方から応援をかって出てくれ,この呼びかけに対して『快諾した』という知らせを、病院へ向かう途中の車中で聞いた私は、いち早く病室の戸田浩司に知らせようと、愛車のアクセルを踏みこみました。ブブブゥウ〜
 ベッドに腰掛けていた浩司は、予想通り「信じられるか〜?」といった様子で、最初このニュースをうわの空で聞き流していましたが、村山構想のスケールの大きさを、単なる私の大風呂敷ではないことと理解した彼は、その後は目を輝かして聞いてくれました。坂本構想の概要はこうです。
 2月18日土曜日に、県民文化ホールのオレンジホール(1階席1,000席)を会場に、午後6時半より8時まで1時間半「戸田浩司君支援大会」を開催したらどうでしょう。
 第一部は会長挨拶、事務局長の経過報告に続いて、「骨髄バンク」関係者・同協議会長の報告,各界の来賓・支援者の支援表明と戸田浩司のピッチング映像や来られない支援者の応援メッセージ等の披露で終える構想です。
 第二部として、この日のために作詞・作曲したスーパーバンドの出演による最初のライブに続いて、入場時に配布したプログラムの裏に書かれた歌詞を見ながら、会場の全員で応援ソングを大合唱して終えるという筋書きです。どう?戸田浩司でなくっても、目が輝くでしょう?
 そして今日は、センター試験第一日。浩司に去年の思い出を聞くと、「そうですねえ・・・、世界史Aが予想以上にとれて、75点(予想は60前後)。しかしその分、80は取る予定だった生物は、難しくてなんと60止まり。従って差し引き5点マイナスだったな〜」と振り返ってくれました。そんな余裕まで見せる彼は、今日病棟の階段を3階分歩いて昇る訓練をしたとか・・・すでに回復時のリハビリの練習に入っている次第です。私は,病室に行くたびによくなっている彼の様子を、こうして皆さんにご報告できる幸せに浸っております。
<戸田浩司君の病室風景レポート3>
1.18  水曜日
 今夜は、浩司とご両親に3つのお土産を持って病室に向かい、2つのお土産をもらって帰りました。
<お土産その@>・・・阪神タイガースの藤川球児直筆(コピーであるはずはないんだから当然か)「戸田浩司君、がんばれ!」の色紙です。下書き用(? どうも失敗作らしい)のも1枚、裏にも文が書かれた、そしていわゆる“サイン”でない『藤川球児』の署名入りの本物との2枚組みのやつです。
<お土産そのA>・・・理科の小笠原先生の発案で、ランス・アームストロング(世界の自転車競技・ツールドフランスを7連覇したすごい人だそうです。先生も知らなかったけど、病室で名前を出したら、浩司のお父さんは知っていました・・・浩司のお父さんは、トライアスロンをやっていたそうです)が、ガンを克服して、選手として奇跡的に復活し、素晴らしい成果をあげたことから、このランス・アームストロング氏に英文で手紙を書いて(英訳は英語科の鎌田先生、校正はトムが担当)発送し、「戸田浩司君を支援する」旨のメッセージを送ってもらえないかと要請したいが、浩司本人・ご両親が承知してくれるかの打診をする、というお土産でした。ご両親も本人からも「お願いします」とのお土産返しをもらいました。
<お土産そのB>・・・他県では一般的におこなわれている、「ドナー登録会」を高知県でも開催してくれないか、という行政への働きかけ(一昨日、県庁・健康福祉部医療薬務課に出向いて担当者に要請してきた)への答えが、予想に反して翌日すぐに「早期実現の方向で、関係各機関と連絡調整に入る。」という内容を伝えるお土産でした。「ドナー登録会」といっても何のことやら・・・とお思いでしょうから、簡単に説明します。ショッピングセンターなど人の往来の多いところで、献血車で献血がおこなわれていますが、他県では同じ献血車で採血をすることでの骨髄バンクへのドナー登録を実施しています。もちろん、一般的な献血とは違って骨髄バンクのシステムやドナーとなる際のリスク、実際に骨髄移植の場合には数日入院して全身麻酔し、腸骨(ようこつ)から、注射器で500〜1,000ml(ドナーの体重によって量は決まります)の骨髄液を吸引し、それを患者に点滴で注入する骨髄移植の実体等をビデオなどで見てもらい、さらに骨髄移植普及広報委員(ボランティア)の方の説明で、充分に骨髄移植の内容を理解してもらった上で、その場に待機している医師の問診を経て、献血車の中で献血量プラス2mlの採血をしてもらって、ドナー登録を完了する、というものなのです。ちなみに、今年1月8日に倉敷イオンでの実施例では、半日で79名の登録実績だそうです。(尾道骨髄移植普及地域広報委員:広畑氏のFAXより)昨日の県の担当者からは、「帯屋町入り口の中央公園北口やイオン高知などで実施を検討する。」という具体的な答弁をもいただきましたので、献血車の出動予定との調整と人的手当てが出来次第、私たち「戸田浩司君支援会」は高知県では実質的に初めての(かつて1度やったものの、あまり効果はなくて以後実施していないそうです)、実のある街頭ドナー登録会を早急に実施出来そうだ、というお土産でした。
 これらお土産3つを、浩司もご両親も手ばなしで喜んでくれました。浩司の体調のよさ、そして辛かった第二ステージ治療の効果が実は上がっていた、という2つのお土産をもらって、私は病室をあとにしました。病棟を出る時の、外の空気がこんなにおいしかったのは何時以来だったかな・・・。
<戸田浩司君の病室風景レポート2>
1.15 日曜日
 以前から浩司が野球の先輩として親しく接してくれている、広島カープの天野浩一投手が昨日(1/14)来高しました。その晩は、高知大学野球部・小松監督、同3回生・福田投手とともに、近くの寿司屋で大学野球(天野投手は四国学院大出身)の話に花が咲きましたが、現在の浩司の病状と、病室を取り巻く状況を坂本がお話しし、衆議一決。天野投手の翌日(1/16)からの合同自主トレ入りのことを考えても、明日はなるべく早く病室を見舞って、帰広することになりました。
 そして今日、午前9時に病棟入り。約1時間、天野投手の持参したロッテ・渡辺俊介投手(ご存知下手投げ)の投球ホームのDVDを食い入るように見つめる浩司の目はキラキラと輝いていました。天野投手に、「あんなに(球速が)遅いのに、ヤッパ打てないんスね」と問う浩司に、「この試合(対中日セパ交流戦)はランナーが出ないから、クイックの投球が見れないなー」と早送りしながら、短い面会時間内での説明がもどかしそうな天野さんでした。二人の会話を、ベッドの手前からやや距離をおいて聞いていた私は、浩司の背中から「必ず、グラウンドに復帰してマウンドに立つ!」という激しい決意を感じて、ハッとしました。
 天野投手のもう一つのプレゼント=カープの赤い帽子・・・これにはツバの裏に「強気!」とマジックで書かれていたのですが、「マウンドで弱気は禁物だ。いつもオレはこれを見て、自分を奮い立たせる。浩司も弱気になるなよ。」と励まして、病室をあとにしたのでした。
 いい日でした。今日、久しぶりに浩司は風呂に入れるそうです。
<戸田浩司君の病室風景レポート1>
 1.13 金曜日
 この日と曜日にはやや暗いイメージがおありかもしれません が、私たち「戸田浩司君支援会」のメンバーにとって、そして彼を心から支援してく れている多くの人々にとって、浩司のご家族と同様、久しぶりにホッとする日だった ことを報告します。  それは、浩司が昨年病院に入院して以来、レポーター(坂本)が会った中で、一番 彼の姿が元気に見えたことです。昼食はぺロリと平らげ(カツオのデンブのようなの を少し残しただけで)、食欲旺盛。夕食後の病室では、両親と浩司の兄と本人と私 (レポーター)の5人が、まるで浩司の自宅での一家団欒の輪にお邪魔しているかの 錯覚に陥るぐらい和気藹々の様子でした。、「頭の白さが目立つな〜」と、浩司のお 父さんが、手で撫でながらつぶやくぐらい、坊主頭が白く浮き立つほどに、浩司の頬 がピンク色に戻っていました。浩司の辛さは、皆痛いほど共有していながら、彼の頬 の色気に冗談を飛ばすこの一家の暖かさに触れて、私はまた明日の高三生へのセン ター直前授業への意欲を新たにできた思いです。  さあ、「明日も奴ら(入試に立ち向かう受験生)に気合を入れてやろう!」と決意 して病棟をあとにしました。私たち戸田浩司をとりまく多くの人々にとって、13日の 金曜日はステキな一日でした。  なお、現在彼の病室には感染の予防等の見地から、病院長・主治医の配慮で、家族のほか限られた者しか入れませんので、申し添えておきます。